1948-02-12 第2回国会 衆議院 治安及び地方制度委員会 第6号
そこで私が最もよく知つております、いつぞやこの席上で発表いたしました備後丸の事件について、私はここで発表して、それから京都の警察部に帰つて、ぜひこの備後丸事件は莫大なる事件であるから、捜査をしていただくようにということを再三再四頼みまして、辛うじて舞鶴事件を成立させ、そして隠退藏物資につき、京都府の警察部が打つて一丸となつて、舞鶴事件は終末を告げたということを言つておりますが、まだまだ舞鶴に隠退藏物資
そこで私が最もよく知つております、いつぞやこの席上で発表いたしました備後丸の事件について、私はここで発表して、それから京都の警察部に帰つて、ぜひこの備後丸事件は莫大なる事件であるから、捜査をしていただくようにということを再三再四頼みまして、辛うじて舞鶴事件を成立させ、そして隠退藏物資につき、京都府の警察部が打つて一丸となつて、舞鶴事件は終末を告げたということを言つておりますが、まだまだ舞鶴に隠退藏物資
お話のありました備後丸の事件は、終戦の直前に上海から、元海軍輸送部の指揮によりまして舞鶴にはいつてまいつたのでありまして、その積んでおりました荷物の内容等も、詳細に書類がありまして判明をいたしておるのでありますが、大部分が軍物資でありまして、兵器、非鉄、金属、地金、ガソリン、小麦、飼料などがあつたのであります。
○大石(ヨ)委員 ただいま久山警保局長が、備後丸は八月十五日舞鶴に入港したとおつしやいましたが、それは誤りで、舞鶴に入港いたしましたのは八月二十三日のちようど正午であります。そして全部荷揚を終了したのは九月の二十五日、西舞鶴の港湾で荷揚を終了し、船のトン数は五千トンでありまして、船主は日本郵船会社の船であります。積荷は約五千トンであります。
それから昨年隠退藏物資の件に関して、すなわち舞鶴の備後丸事件に関して、私はこの席で発言いたしましたが、その後いかになつておるか、それを当局に聽きたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
海軍の徴用船に備後丸というのがございます。それは日本の大阪に本社をおきます郵船會社が船主なのでございます。ところか戰争中、これが海軍の徴用船となつた次第でございます。まずこの備後丸に何億という金を依托して、上海の支那の物資を舞鶴の海軍が依頼したようなわけなのでございます。まず上海を出帆いたしましたときが、昭和二十年の七月二十一日朝でございます。